静岡家具の歴史

静岡家具産地の歩みを紹介します。

静岡家具の発生期

江戸時代

江戸・ 古鏡

江戸・ 古鏡

寛永11年(1634)

1)徳川三代将軍家光公が浅間神社を造営した時、全国各地から集められた漆工や大工、指物師、彫刻師などの職人たちの多くが造営後も駿府に定住した。

2)気候が漆芸に適していたため、漆器づくりが盛んになった。

3)漆器づくりで培われた伝統技術、技巧が鏡台づくりに活用されることとなった。

静岡家具の生成期

明治時代

明治・古鏡

明治・古鏡

明治18年

1)漆塗りの西洋鏡台が静岡市内の業者によってはじめて作られ、鏡台産地としての基礎がつくられた。

2)洋家具は、建具業界から発達し、明治中期以降の近代化による洋風建築の増加などに伴う椅子、机等の需要増や公共施設などからの注文家具(コントラクト家具)の生産を背景に洋家具産地としての基礎を築いた。

明治28年

3)東京で鏡台製作技術を収得した者が帰静して、桑色付(くわいろつき)鏡台の創業をなし、新規品で実用的な各種鏡台を製作し好評を得た。

4)この頃から西洋鏡台(針箱を横広にしたような箱の上に猫足と鏡を取りつけたもの)が一般 に普及するようになった。

大正時代

鏡台

鏡台

大正7~8年頃

1)茶ダンスなどの大型の置家具も鏡台から分化して作られるようになリ、木製家具産地の様相を濃くした。

2)静岡産地の独自の生産システムである社会的分業体制が誕生した。これは、生産・販売・を結ぶ扇の要の役割を持つ製造業問屋を中心に、下職である木地屋、漆師屋、蒔絵師などと共に更に関連業者によって構成されている。

大正末期

3)漆に代ってラッカーによる洋塗装が普及したことから一層低廉な価格での生産が可能となり、関東大震災後の復興需要も契機となって、大衆向け商品の出荷額を大いに伸ばすこととなった。

昭和初期/戦前

静岡市長書棚

静岡市長書棚

1)丸鋸プレナー、帯鋸などの工場機械設備の発達により、漸次工場生産の形態がとられるようになった。

2)静岡市庁舎、県庁舎など、建築の諸調度品をはじめ、東京帝国ホテルの調度品の注文を受け、他産地進出の気運をつかんだ。

昭和中期/40年頃まで

昭和22年

1)進駐軍用家具類の割当発注をきっかけに、一大発展期をつかんだ。

昭和30年以降

2)洋家具が急速に台頭し、またサイドボードという新製品がヒット商品となり、戦前の和家具産地のイメージが大きく変わった。

3)藤枝家具団地(38年)、大井川家具団地(41年)などが建設され、製造問屋の中にも一貫メーカー化をはかるものが現れるようになった。

4)製品の種類も豊富になり、総合家具産地の色彩 が濃くなった。

昭和26年

5)静岡で第1回の家具見本市が開催される。

昭和後期

1)昭和56年から産地振興に取り組み、さらには、島田市を中心に新たな組み立て家具産地が形成されるなど、豊富な品揃えを誇る全国有数の総合家具産地へと進展した。

2)昭和62年には、離合集散を繰り返してきた家具業界も静岡県家具工業組合に統合し、一本化された。

静岡家具の現在

1産地概要

ア)一貫生産メーカーと合理的な分業生産システムをもつ製造卸で構成されている。

イ)大量生産から多品種少量生産への脱却を図るとともに、
長年培われた技術を元に新たな発想とチャレンジ精神で多様化する消費者ニーズに対応した物造りをしている
個性派企業が増えてきており、いくつもの違った顔をもった産地として形成し始めている。

2産地(中心となる市町村)
静岡市、島田市、焼津市、藤枝市、

3事業所数(平成25年静岡県工業統計)
173 企業

4従業員数(平成25年静岡県工業統計)
2 ,501人

5出荷額 (平成25年静岡県工業統計)
308 億円

6主要製品
ドレッサー(鏡台)、食器棚、タンス、和茶棚、リビングボード、飾り棚、ダイニングセット、シューズボックス、軽家具、小物、コントラクト家具など